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〒043-0041 北海道檜山郡江差町字姥神町1-10
一般財団法人 開陽丸青少年センター

TEL. 0139-52-5522 FAX. 0139-52-5505

見出し

どんな運命だったんだろう!

 開陽丸は1866年10月オランダでつくられ、1867年3月日本に到着しました。それからその時の政府・徳川幕府の旗艦として働くのですが、徳川幕府が力を失い天皇が政治の実権を握るようになり、徳川の家臣たちは開陽丸を奪い北海道へ逃亡します。その抵抗も長続きせず最後には開陽丸も江差で座礁・沈没したのです。

  • 安政2年(1855)(6月) オランダ国王より観光丸が寄贈され、第1次長崎海軍伝習所が開校。
  • 安政4年(1857)(4月)築地に海軍操練所が設けられ、長崎海軍伝驟習所の一期生が教師となる。
                                         (海軍兵学校の発端)
              (8月)幕府購入の咸臨丸がオランダから到着しオランダ海軍カッティンディケ、伝習所の
                  教官団団長として来日。
  • 安政6年(1859) 長崎海軍伝習所閉鎖。
  • 万延元年(1860)(1月)咸臨丸、日米修好通商条約批准交換のため浦賀を出港、サンフランシスコへ向かう。
  • 文久2年(1862) 幕府、長崎駐在オランダ総領事を通じ、オランダ貿易会社に軍艦(開陽丸)を発注。
              (6月)軍艦の発注に伴い、オランダに15名の留学生を派遣する(翌月4月オランダ到着)
  • 文久3年(1863)(4月)オランダ貿易会社とヒップス造船所の間で軍艦(開陽丸)の造船契約が交わされる。
              (8月)起工式が行われる。 キール据え付け式が行われる。
  • 元治元年(1864)(9月)建造中の軍艦を、幕府の指示により「開陽丸」と命名する。
  • 慶応元年(1865)(9月)開陽丸進水。
             (10月)留学生のうち、西、津田が帰国。
  • 慶応2年(1866)(8月)開陽丸完成、造船所から貿易会社に引き渡される。
             (12月)海軍大尉ディノーの指揮で、開陽丸、榎本ら9名の留学生を乗せて、フリッシンゲン
                   を 出港、日本に向かう。
                  (赤松、林、伊東は留学期間を3年間延長し、オランダに残る)
  • 慶応3年(1867)(4月)開陽丸、横浜に到着。 榎本、軍艦役に任じられ、沢とともに開陽丸で乗艦。 大阪湾
                  の警固にあたる。              
  • 慶応4年(1868)(1月)徳川慶喜、鳥羽・伏見の戦いに敗れ、開陽丸で大阪を脱出、品川に至る。
              (4月)榎本、開陽丸ほか7艦を奪って館山沖に脱走、勝安房(海舟)説得により品川帰還。
                  幕府、軍艦を新政府に引き渡し、改めて開陽丸ほか3艦の返還を受ける。
              (8月)榎本艦隊8隻、品川沖より脱走。
             (10月)仙台で旧幕府の敗残兵、土方歳三、大鳥圭介ら2,800名を収容。蝦夷地内浦湾の
                  鷲 の木村(現森町)に到着、陸兵が上陸し、箱舘に向けて進撃を開始。(20日)
             (11月)榎本、開陽丸で箱舘に入港、五稜郭に入る。 江差占拠の陸兵援護のため、開陽丸江
                  差沖に到着、砲撃(15日)同日夜半、暴風雪のため座礁、約10日後に沈没する。
  • 明治2年(1869)(3月)政府軍、蝦夷地に上陸。
              (5月)榎本軍五稜郭で降伏、箱舘戦争終了。  
開陽丸の歴史(2)開陽丸の歴史概要

大きな船なんだね!

 当時の日本はこんなに大きな軍艦は作れませんでした。徳川幕府は外国の軍艦がたびたび日本のまわりに出没するようになり日本にも対抗できる軍艦が必要と考え、長年友好関係のあったオランダに注文し、ヒップス造船所という会社が作りました。

船型       シップ型3本マスト・補助エンジン付き
開陽丸排水量   2,590トン
最大長      72,80メートル
         (バウスピリットを含め、81.20メートル)
最大幅      13,04メートル
吃水深      5,70メートル(前部)
         6,40メートル(後部)
帆面積      2097,8平方メートル
補助       400馬力蒸気機関1基(トランク・スチーム
         エンジン)
速力       10ノット(汽走時)
標準装備     大砲26門(うち18門は16センチクルップ
         砲)
         後に9門が追加され35門になった。外に小型
         ブロンズ・ホーウィツェル砲など付属砲8門
乗員数      350〜500人
設計者      J.W.L.ファンオールト(van Oordt
造船所      ドルトレヒト市ヒップス・エン・ゾーネン造船
         会社(C.Gips en Zonen
キール据付式   1863年(文久3)9月13日 進水式
         1865年(慶応元)11月2日
貿易会社への引渡 1866年(慶応2)9月10日 幕府への引渡
         1867年(慶応3)6月22日

  開陽丸記念館

開陽丸の歴史(2)

 オランダで造られた開陽丸 オランダのドルトレヒトにあるヒップス・エン・ゾーネン造船所は開陽丸の船体を作りました。大砲はドイツのクルップという製鋼会社で作りました。この大砲は性能がずば抜けていて世界中の戦争をしている国はこのクルップ砲を求めました。この大砲を積んだ開陽丸は当時の世界でも最新鋭の軍艦でした。

開陽丸の縦断面図(開陽丸設計図45枚中の1枚)


   建造中の開陽丸              開陽丸進水式の様子


完成した開陽丸          荒波を航海する開陽丸

開陽丸の歴史(2)

 日本への長旅  オランダで完成した開陽丸は1866年日本に向け出航しました。ディノー艦長以下109人の乗組員と日本人の留学生ら9人が日本をめざしました。大西洋を南下、ブラジルに立ち寄りアフリカの南を越えインド洋から北にむかい翌年1867年に横浜港に到着したのです。それは、長く厳しい航海でした。

開陽丸回航(1866年12月1日〜1867年4月30日)

ホイヘンスが描いた原画をもとに、フレ イベが1866年に石版に彫った。
  1. 12月 1日   ブリッシッンゲンを出航(午前8時)開陽丸の石版画
  2. 12月18日   雪を伴う激しい嵐
  3. 12月26日   イギリス船クランスマン号に遭い話を交わす
  4. 12月31日   大晦日のため休日とする(30日目)
  5.  1月22日   リオデジャネイロに到着 石炭305トンを積む(52日目)2月1日 出港
  6.  2月15日   激しい嵐のため帆を降ろす
  7.  2月26日   この日現在、病人は11人にのぼる(87日目)
  8.  3月 1日   海水からエンジン用の真水をつくる3月1日 海水からエンジン用の真水をつくる
  9.  3月22日   無風のためアンボイナまでエンジンで航行(1日平均72キロ)
             この頃、船内での気温は50度をこす( 111日目)
  10.  3月29日   アンボイナ(アンボン)到着 石炭299トンを積む(118日目)4月10日 アンボイナ出港
  11.  4月29日   伊豆七島の島の利島を見る 午前10時、日本本土と富士山を確認する(149日目)
  12.  4月30日   横浜到着(150日目)


    開陽丸回航図


 1ポンドダライアパス       16センチ施条長カノン砲

 
名 称 寸 法  重 量 施条 使用弾種  性 能
30ポンド
カノン砲
全長2m42cm
口径16.0cm
1,686kg なし 榴弾(球形弾)実弾 装薬4.0kg射角11.0度で2,700m以上
16サンチ
クルップ砲
全長3m35cm
口径15.8cm
2,855kg あり  榴弾(尖頭弾)
実弾(尖頭弾)
散弾(ブドウ弾)
装薬2.5kg射角4.5度で3,980m
1ポンド
自在砲
全長1m05cm
口径5.3cm
85kg なし 実弾、榴散弾  
9インチ  ダルグレン砲 全長3m33cm
口径22.5cm
4,200kg なし 榴弾(球形弾) 装薬4.0kg射角4.0度で1,400m
12ポンド
カノン砲
全長2m13cm 口径11.6cm   あり 榴弾、榴散弾 装薬1.2kg射角32.5度で4,700m

開陽丸の歴史(3)

江戸から北海道へ 開陽丸が日本に到着して徳川幕府旗艦として働いて間もなく日本の政治は大きく変わり、4ヶ月後に大政奉還、王政復古の大号令が出ます。これにより、徳川幕府がおさえていた政治の実権が完全に天皇率いる新政府のものとなり、開陽丸などの軍艦も新政府に引き渡されました。しかし、旧幕府の家臣・榎本釜次郎(武揚)らは船を奪い品川沖から蝦夷地に向かったのです。


品川沖を航行する艦隊(函館市立中央図書館蔵)

   榎本武揚 榎本武揚


榎本釜次郎(武揚)   鷲ノ木着船之図(函館市立中央図書館蔵)

洋式海軍学を修学するため26歳でオランダに留学し、5年後の慶応3年(1867年)、日本に回航される新造の開陽丸とともに帰国。幕府の軍艦奉行となり、戊辰戦争では開陽丸に乗り込み、幕府艦隊を率いて北海道へ。開陽丸座礁沈没後、五稜郭にたてこもるが官軍に降伏。釈放後、政治家としての晩年を過ごす。明治41年没。

※画像クリックで拡大

@ 横浜港で徳川政府に引き渡し

A 天保山沖に出動

B 兵庫沖海戦

C 阿波沖海戦

D 徳川慶喜、大阪脱出

E 品川沖入港

F 開陽丸他7隻、品川を脱出

G 暴風のため2艦を失う

H 修理のため仙台入港

I 宮古で薪を積み込む

J 鷲ノ木上陸、函館に向けて進撃開始

K 函館入港

L 江差砲撃 座礁、沈没

 海に沈んだ開陽丸  榎本軍は函館に新政府を樹立したあと、さらに福山城、江差の攻撃にうつりました。この攻撃の援護を開陽丸が担当し江差の攻撃を開始しました。江差は全く抵抗しなかったので、陸をまわってくる自軍を待つことにしました。ところが猛吹雪となりイカリも船も押し流され暗礁に乗り上げてしまいました。そして自由を失い約10日後に海の底に沈没してしまったのです。蝦夷地に新政府を樹立した榎本軍の追討令を発令した政府は軍艦の援護によって榎本軍を五稜郭に追いつめ、榎本軍が降伏し函館戦争は終わったのです。


   福山城を攻撃する幕府艦隊        箱館海戦の図
   (函館市立中央図書館蔵)      (市立函館博物館蔵)


      箱舘奉行所          開陽丸座礁を描いた図
  (函館市立中央図書館蔵)      (函館市立中央図書館蔵)

開陽丸の発見 沈没以来明治7年頃までは多くの武器、弾薬、船具などが引き揚げられていました。その後も民間の引き揚げ業者などによって金属の回収などが行われていましたが途中で調査はうち切られていました。 開陽丸と共に沈んだ遺物は長い年月の中に消えてしまったのでしょうか。昭和49年文化庁の指導のもとで海底調査が行われました。この時、開陽丸の遺物が大量に発見されました。防波堤ができて海の流れが変わり海底の砂が運び去られ、再び姿を現したのではないかと考えられています。そして、引き揚げ作業が始まったのです。

開陽丸の発掘 海中遺跡の発掘の例がない日本だったので外国の資料をもとに引き揚げの方法や問題点を調べました。開陽丸発掘は専門家によるチームが中心になり引き揚げの方法、引き揚げてからの保存方法などいろいろなことを解決してからでないと、せっかく引き揚げた物も保存できないのです。

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昭和49年度     44点
昭和50年度    400点
昭和51年度  1,800点
昭和52年度 16,000点
昭和53年度  7,565点
昭和54年度  2,972点
昭和55年度    522点
昭和56年度       ―
昭和57年度  2,123点
昭和58年度  1,375点
昭和59年度    104点
ーーーーーーーーーーーーーー
総    計 32,905点
 

年度別出土点数

開陽丸遺物の引き揚げ 最初はたくさんの遺物がどのように散乱しているかをしっかりと記録しておかなければなりません。これをしないと引き揚げてから何がどこにあったかが分からなくなり、判定がしにくくなるのです。海底では浮力や水圧が動きの邪魔をして、陸上のように自由に動けないのです。それに、海底では手や足を動かすたびに砂が舞い上がり何も見えなくなってしまうのです。さらに、長い年月の間に錆びてくっついてしまった金属があり、これを一つ一つはずして引き揚げるため海底での作業が大変でした。そして、10年余りをかけて引き揚げられた遺物は3万点を超える数になったのです。

開陽丸遺物の保存 海水に長い間浸かっていた遺物は空気中に引き揚げられると海の中にある時より腐食が早くなります。海水の中の塩分が遺物にしみ込んでいるため塩分を抜く作業が最初に行われ、その後、それぞれの物質によって保存するまでの工程が違うのです。当時、東京国立文化財研究所の江本義理先生と江差高校の小林優幸先生と化学クラブの生徒たちが処理に当たったのです。

材質別出土遺物点数 金属製遺物の保存処理工程
種別 材  質 引揚点数
金 属  
   鉄     -  5,879
   銅・真鍮  - 17,392
   鉛     -  3,546
   錫     -     61
   金・銀   -     48
   金属複合  -    323
●遺物の引き揚げ
      ↓ ← 岩盤等付着物剥離
有機物
   皮     -    574
   繊維    -     952
   木材    -     794
   紙     -       1
   骨     -      14
   くぎ    -      19
●脱 塩
     ↓ ← 鉄
       2%カセイソーダ1年(2ヶ月換水)
     ↓ ← 銅・真鍮
       5%セスキ炭酸ソーダ6ヶ月(2ヶ月換水)
     ↓ ← 鉛・錫
      2%セスキ炭酸ソーダ3ヶ月
陶器類
   陶器    -   1,606
   硝子    -   1,311
●脱アルカリ
      ↓ ← 水道水浸漬
      ↓ ← 純水浸漬
その他
   異種複合  -     351  
   石・石炭他 -      34
●脱水・乾燥
      ↓ ← 熱風乾燥器
計 32,905 ●クリーニング
      ↓ ← ハンマー・ブラシ・グラインダー
●表面処理
      ↓ ← 鉄 ・・・デンソーペースト
      ↓ ← 銅・真鍮 ・・・インクララック
●収 蔵

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