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〒043-0041 北海道檜山郡江差町字姥神町1-10
一般財団法人 開陽丸青少年センター

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幕末維新と江差

ペリーの黒船が幕藩体制を震撼させ、やがて徳川幕府の消滅、そして明治維新を導きました。そして函館は長崎や横浜などとともに開港地に選ばれました。いわば、江差を含む道南の地は明治維新の発火点になったのです。それだけに、安政元年(1854年)ペリー来航から始まる幕末の動乱がこの道南の地で幕を閉じたのも、偶然ではなかったのかもしれません。

慶応3年(1867年)将軍徳川慶喜の大政奉還、続く明治天皇の王政復古の号令によって江戸幕府は倒れますが、なお幕府の残党たちは戊辰戦争を起こし、新政府に抵抗します。そうした中、幕府の海軍副総裁であった榎本武揚は、蝦夷地を開拓し旧徳川家臣を救済したいと、8隻の徳川艦隊を率い、北海道に上陸。こうして幕末最後の動乱、函館戦争が始まりました。

明治元年11月15日、早朝。榎本武揚を乗せた徳川艦隊の旗艦開陽丸は鴎島に迫り、対岸に向けて7発の砲弾を撃ち込みました。そのとき、すでに住民の多くは避難し、町は無人となっていました。端舟で上陸した幕兵は、直ちに陣屋と砲台を占拠。開陽丸は鴎島の島影に停泊し、榎本軍は無血で江差を占領しました。

町内随一の旅館「能登屋」で疲れを癒していた榎本司令のもとに「開陽丸、沈む」という報告がもたらされます。飛び起きて浜に駆け寄ると、北国の厳しい高波が傾いた開陽丸を襲っているのを見て、呆然と立ちすくみます。

その頃、松前から浜伝いに藩兵を追ってきた土方歳三の軍が、予想を超える抵抗に合い、苦戦を続けていました。土方が抵抗線を突破して江差に入ったのは翌16日のことでした。血なまぐさい戦闘服姿のままで能登屋に駆け込んだ土方が見たものは、海に目を凝らして動かない榎本の姿でした。

この日、二人にお茶を運んだ能登屋の女中は、ただお茶を届けるだけで、話を交わしたわけでも、眼があったわけでもないのに、わけもなく体が震えて止まらなかったと後に語ったそうです。

能登屋を出た二人は、本陣とした順正寺に向かいました。途中、この時は無人となっていた檜山奉行所があり、門前まで来た二人は、そこでまだ3分の1を海面に晒した開陽丸を眺めました。

よほど悔しかったのでしょう。土方は目の前にあった松の幹を何度も拳で叩きながら、涙をこぼしました。後年、土方が叩いた松の幹に瘤ができ、人々はこれを「歳三のこぶし」と噂し合ったそうです。

開陽丸を失った榎本軍は明治2年、函館で新政府軍に降伏し、戊辰戦争は終わりを告げます。松ノ岱公園の檜山護国神社境内にこの戦いで戦死した92名の新政府軍の霊が祭られています。




(旧檜山爾志郡役所前)

2004年大河ドラマ「新選組!」では、山本耕史さんが熱演している土方歳三。土方は箱館戦争の最中に江差に来ています。鷲ノ木(現在の森町)から上陸した土方は、五稜郭(函館市)・福山城(松前町)を経て、陸上から江差を進攻しました。軍艦「開陽丸」もあわせて江差にやってきましたが、明治元年11年15日(いまの暦だと12月28日)暴風雪のために座礁してしまいました。

それを見た土方はいたく嘆き、いまの「旧檜山爾志郡役所」前にある松をこぶしで叩きました。いま松の幹が曲がっている部分が瘤(こぶ)のようになっているのは、土方の叩いた跡だと伝えられています。(「江差百話」など)「嘆きの松」の真偽は確かめようがありませんが、土方歳三は伝説の中でも江差で慕われ続けています。

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